ヨガのお話を聞くときに「欲を手放しましょう」「執着を手放しましょう」というワードを聞いたことはありませんか?「何も欲してはいけないの?」「何かしたいという願望を捨て去ってしまわなければいけないの?」そんな風に疑問に感じる方もいるかもしれません。“手放すこと”について考えてみましょう。
ヨガの聖典であるヴェーダの知識によると、私たちは生きていく中で何かをずっと探し求めていると説かれます。雨風をしのげる住む家が欲しい、生きていくための食べ物が欲しいなど生命を維持するための最低限の何かを欲しがるだけでなく、立派な家に住みたい、おいしい食べ物を食べたい、素敵な洋服が欲しいなど自分を楽しませてくれるものも欲しがります。それは何のためでしょう。何かを手に入れることで自分が幸せになるような気がするからです。立派な家に住んだり、おいしい食べ物を食べたり、すてきな洋服を着ると、幸せな気持ちになりますね。それを求めているのです。私たちはいろいろなものを求めますが、それは結局幸せになりたいからなのです。
でも考えてみてください。それは私たちをずっと幸せにしてくれるものでしょうか?手に入るものはいつか失います。私たちの体でさえそうなのです。月日がたてば衰え、朽ちていきます。手に入れるものはすべて一時的にしか私たちを幸せにしてくれることはできないのです。つまり、探しても探しても、どこにも幸せはないのです。
ではどうすれば幸せになれるのでしょう。幸せになりたいがために何かを求めるということは、「今が幸せではない」と思っているということの裏返しです。何かを欲しがるとき、私たちは持っていないものを欲しがります。私たちは私たち自身を「幸せではない」と思っているのです。ヴェーダはその「幸せではない」というスタート地点がすでに間違っているといいます。そうではなく、私たちはすでに幸せで、満たされていて、何かをやみくもに求める必要がない。それに気づくことこそが大切なのです。
その視点から、私たちの目の前の物事を見てみましょう。「幸せな気持ちになれる」から何かをする、何かを欲することがいかに多いことか気づくはずです。それは私たちの勝手な思い込みなのです。勝手に思い込んだものを期待して、行動をして、期待通りのものがかえってくればご機嫌になりますが、そうでないときは傷ついたり、落ち込んだりします。そのようなときに私たちは執着が生まれます。「こうなるはずだったのにならなかった」、「うまくいかなかったのは○○のせいだ」と思い悩んだり、誰かを恨んだりするのです。このように執着は苦しみを生み出します。それはとてもつらいことです。
ヴェーダでは私たちのするすべての行いは結果を生み出すと考えます(因果応報というとわかりやすいかもしれません)。ただ、それがいい行いなのか悪い行いなのかは絶対的な正解がありません。良かれと思ってしたことが悪い方向にいってしまうことだってありますよね。私たちには未来はわかりませんから、絶対に正解だけを選ぶことはできないのです。だからこそ、目の前の選択に勝手な思い込みで期待をすることはそれがその通りになるかはわからないし、逆に期待することで執着や苦しみを生み出すことにつながってしまうのです。つまり“結果を手放す”“執着を手放す”“欲を手放す”というのは、勝手な思い込みや期待をせずに目の前の物事をとらえて、行いをしていきましょうという意味なのです。
そうすれば執着や苦しみが減り、どんな結果でも受け入れる準備につながるのです。そしてそれは自己受容にもつながります。完全に自己受容することができれば「私はすでに幸せである」という結論に至ることができ、やみくもに何かを求めて苦しみながら生きる必要がなくなるのです。小さなことでもいいので、少しずつ抱えていた執着や苦しみを手放してみてください。そうすることでより健やかな毎日を送ることができるでしょう。
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